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ピックアッププレイヤー 2025-vol.06 / 山田 新

夢を叶えるために頑張れる人へ

テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

憧れだった等々力で、「フロンターレを救えるゴールを決めたい」と願ってきた。

苦しい時もコツコツと積み重ね、「自分はもっとやれる」と信じた先に、目標や夢を掴んできた。

たくさんの愛情を受け取り、勇気や感動を与えるストライカーになった。

日本代表初選出、海外クラブへ移籍するキャリアは、フロンターレで掴んだ結果であり、スタートライン。

自分が描く夢や目標に向かい、通過点である今日もまた、やるべきことに全力を注ぐ──。

等々力は、夢の舞台

 2025年7月5日対鹿島アントラーズ戦。

 山田新は、「(移籍前)U等々力でプレーする最後になるのだろう」と思っていたという。

 前日の麻生グラウンドでの練習、筋トレ、食事、寮での時間…、2年半の間、当たり前だったことが、最後になるかもしれない。

 そう思いながらも、なかなか実感は湧いてこなかった。

 当日、試合前にアップしている時も、ひとつひとつの行動や、応援を聴くのも、もしかしたら最後なのかもしれないと思うと、どこか寂しかった。

 相手は、お世話になった“オニさん”率いる鹿島アントラーズで、仲の良かったチームメイトの高井幸大を送り出す試合でもある。

 絶対に勝たないといけない。そして、自分がゴールを決めたいと思っていた。

 アディショナルタイムに入り、2対1でリードしている状況で、最後まで身体を張って勝つために必死に守り抜いた。

 それと同時に、心は複雑だった。残りわずかなタイミングで宮城天がピッチに入り、互いによく知っているテンからのパスでゴール前に入っていきたい葛藤もあった。

「このままゴールを取れないで終わるのか。取れずに自分は行くのか」

 

 そう思ったら悔しさがこみあげてきて、試合終了前から泣きそうになっていた。だから、ホイッスルが鳴ると、涙が出てしまった。

 この試合が最後だった高井幸大の元にチームメイトが駆け寄ったが、新の気持ちを知るチームメイトたちが泣き顔を隠すように頭や肩を叩き、「よくやった」「頑張った」「お前は、まだ泣くな」と声をかけてくれた。

 昨年の最終戦や、「(フロンターレ加入)同期だった」瀬川祐輔の移籍など「人のことだと寂しいけど、自分のことでは泣かない」と思っていたけど、やっぱり寂しかった。

 グラウンドを周る時、日本代表初選出を祝福してくれる応援の声やチャントをもらいながら、これまでの感謝の気持ちと、いいクラブだなと思いながら感慨深い気持ちでいっぱいだった。

 その後、翌日からの日本代表活動に向けての取材対応などで遅くなった新は、高井とふたりで最後まで等々力に残っていた。

 タクシーが来るのを待つ間に、U等々力の写真が撮りたいと高井と一緒に新もピッチサイドにやってきた。

 ぐるっとU等々力のスタジアムを何度も見渡して、自分のスマホで写真を撮っていた。

 それから、オフィシャルフォトグラファーの大堀優さんが来て、高井の写真を撮り、続いて新の写真を撮って、二人一緒に並んで写真を撮った。

 フロンターレに戻ってくることは夢だった。ここ等々力は、憧れの舞台だったから──。

アカデミー生の見本になるキャリア

 山田新は、フロンターレアカデミーで中学、高校時代の6年間を過ごし、桐蔭横浜大学を経て2023年にフロンターレに加入した。

 

 Jクラブのアカデミーに所属する選手の多くが、そのクラブのエンブレムが入ったユニフォームや練習着を着てサッカーをした先にトップチームでプロ選手になるというキャリアを自然と描いているだろう。とはいえ、U-12、U-15、U-18とカテゴリーが変わる度に昇格の壁も突破し、結果的にトップチームまで辿り着けるのは、ほんのひと握りで、対象者がいない年もある競争が厳しい世界である。

 新と同い年のフォワード宮代大聖は、中学3年生から上のカテゴリーのU-18で試合に出ており、高校3年生の4月に当時クラブ史上最年少でプロ契約。年代別の代表でも活躍していた。高校3年生のシーズンは、当時の今野章U-18監督が新と大聖を2トップで起用し、新はリーグ戦で14ゴールを決めた。

「U-18からトップチームに上がれなくて悔しいという土俵にも当時の自分はいなかった」と捉えていた新は、それでも「フロンターレに戻りたい」という目標を叶えるために、練習、筋トレ、食事、睡眠、自分ができる限りのことをして、大学1年からブレずにコツコツと積み重ねた。

「(アカデミー時代から)周りのチームメイトもそうだし、(宮代)大聖もそうだし、いろんな人が刺激を与えてくれたし、負けたくなかったというのはあります。大学時代は、とくにフロンターレがどんどん強くなっていたし、自分はやらないといけない。やらないと戻れないと思っていました。そういう目標があったので、やり続けられたのかなと思います」

 大学時代は、スピードとフィジカル面の強さを、さらにプレーの中で活かし、2年生の後期からはコンスタントに結果が出て、大学選抜にも選ばれると、最終学年に向け、自分のゴールでチームを勝たせる「エース」という存在へと成長し、「大学ナンバーワン・ストライカー」と呼ばれるまでになっていた。

「新は、まるで子どもがいつでも遊びたいのと同じように、オフでもサッカーしていました。彼は、サッカーがうまくなるための努力を努力だと思ってない。必要だから、うまくなりたいからやっている。人にはないスピードがあって、人にはない強さがあって、誰よりも努力できる。あんなにサッカーが好きで、誰よりも頑張れる。これはプロになるよなって思っていました」(桐蔭横浜大学 安武亨監督)

「新が帰ってくる」という知らせがアカデミースタッフのミーティングで発表された時、“どよめき”が起こり、関わってきた周囲の人たちや家族、かつてのチームメイトも驚きとともに喜んでくれた。それぐらいにアカデミーを離れていた間の努力と成長曲線が想像できたということだろう。

 スカウトの向島建は、当時、こんな話をしてくれた。

「サッカーは、いろんな人に可能性があるスポーツです。必ずしも、“フロンターレだから、うまくなければいけない”という視点だけで、学生を見ているわけではありません。もちろん“うまさ”は必要な要素ではありますが、全員が同じ特徴ではチームは成り立ちませんし、ポジションによって役割も違えば、その選手が持っている武器や特徴が最大限生かされることで、チームを助け、いい影響を与えることもあります。また、学生時代からすべてを兼ね備えている選手というのはいなくて、何かに秀でていて、何かが足りなかったりする。でも、その後にレベルが高いプロの環境で揉まれることで、技術が格段とレベルアップしていく姿もこれまで見てきました。だから、新のこれまでのキャリアや存在は、アカデミーの子たちにとっても、可能性を広げてくれたんじゃないかと思いますし、指導者にとっても個を育成する上での気づきになったのではないかと思います。もちろん、新には圧倒的なスピードという突出した武器だけではなく、ストイックに自分を追い込めて、ブレずに頑張れる信念も感じていましたし、努力できる人間性の部分も今回のオファーを決めた大きな要素になりました」(向島)

 本人は、他クラブからの複数のオファーがある中で、待っていたフロンターレからのオファーは「信じられない気持ち」が大きく、加入してしばらく経ってからも「4年間離れて観ていた側だったので、俺、フロンターレに来ているんだなぁ」と現実味がなかなか感じられなかったという。だが、それと同時に「夢を叶えたぞっていうのはないです。これからが大事なので、それで満足したら終わりだと思っているし、どこまでいってもそんな感じだと思います」と自分を客観視していたことも印象的だった。

 

 寺田周平(当時ヘッドコーチ)が2023年をもってフロンターレを離れる際に、「新は、中学時代に見ていたプレースタイルそのままに戻ってきました。自分の武器を磨き上げて、プロを勝ち取ったんだな。大学時代の4年間、本当に頑張ったんだろうなと思います。自分が育成年代で関わった選手たちとトップチームで再び一緒にやれたことは、指導者冥利に尽きました」と話していた。

 結果的には、フロンターレを離れる前に決めた最後のゴールは、新が中学3年生の時のU-15監督で、当時「周平さんのためにも頑張ろう」と思っていたという寺田周平監督率いる福島ユナイテッドFC戦で挙げた2ゴールになった。

山田 新 山田 新

継続は力なり

 最後の鹿島戦での戦う姿は、中学3年の時にゲームキャプテンをやることになった試合で、「点を取ったり、守備を頑張ったり、倒れるまで走ろう」と思っていたという姿勢そのままのように見えた。

 長橋康弘ヘッドコーチは、新が高校1、2年の時に練習前に一緒に自主トレをやっていたが、アカデミー時代から「新の良さは、スピードやゴールだけじゃなくて、90分走り続けられて、あれだけ献身的に守備も頑張れるところ。チームメイトを助けるし、相手選手はイヤだと思う」と感じていたという。

「新は、常に一生懸命で、ひたむきに努力をしていました。U-18に昇格してきた時、誰よりも速くて、泥臭いプレーもできたので、『こういう子に技術や戦術理解がついてきたら、ものすごい選手になるだろう』と私自身すごく楽しみでした。自主トレでは、自分にこういうところが足りないからもっと頑張んなきゃという想いが話を聞かなくても伝わってきました。明確な武器があった新は、自分の課題にも向き合い、時間をかけてやり続けてフロンターレに帰ってきてくれました。“やれば、できる”という勇気を与えてくれたし、みんなから応援され、愛される人間性があるから、新ならプロになれると私も信じることができました」(長橋)

 本人は、「継続すること」について、こんな風に話していた。

「アカデミーに入って、自分は技術的には最初は底辺だったと思うし、周りが上手くて劣等感もあったから、とにかく頑張ることでチームに貢献しようと思っていました。自分の武器は認めてくれていたので、そこは見失わないように、持ち続けることができました。学校の同級生からは、フロンターレに行っているだけですごいという目で見られることがあっても、実際の自分は試合に出られていない。だから、自分が不甲斐なく感じることもありました。高校生になって、ボールフィーリングはヤスさんとの自主トレでも教えてもらうことが多くて、オフには公園で練習していました。

 ただ、自分では“頑張った”という感覚はなかったです。上手くなった方がサッカーが楽しいし、周りのみんなが上手かったので、自分はやれていないという感じが強くて、“行かないとダメだよな”と思っていました。それに自分には特徴があり能力は高いと思っていたので、それを自分が活かせないのはもったいないな。そういうところもできるようになれば、もっと自分はやれると思っていたからやり続けました。中学、高校、大学とどの時代もやり続けてきたことで最後にはある程度の成功体験は得られました。

 フロンターレに戻ってこられたことは、もちろん運や周りの人たちのおかげだと思いますが、続けることは得意だったのかなと思います。たとえ、気分が乗らない日があっても、練習やトレーニングは習慣化していたので、グラウンドや公園にとりあえず行っていました。プロになった今でも練習をしたり、自主練をすることで、たとえうまくいかないことがあっても、それはそれで成長は感じられる。やれることはやってきたし、それはこれからも同じだと思います」

 プロに入ってからも「苦しかったり、悔しい時間の方が長かった」とセレモニーで言っていたが、そういう時でも、夢や目標を見据えた上で、今の自分ができることをコツコツとやり続けてきた。だから成長してきたし、プレーにおいてもできることがひとつずつ着実に増えた。

 当時、一緒にトレーニングをしていた戸田光洋コーチがこんな風に言っていた。

「新は人徳もあるし、続ける力もあるし、理解力もあって、自分が納得したプレーを本能的に出すことができる器用さもあります。そういうことを持ちあわせている選手はなかなかいないので、将来どこまで行くのか楽しみです。“継続は力なり”っていうじゃないですか。当たり前にできていると思っていることって意外と続けることが難しかったりしますよね。新には続ける力があります。まだ試合に出たり、出られなかったりしていた時期から、苦しいなかでも、(日本)代表や自分のキャリアのこともイメージしながらも、コツコツ積み重ねていました。2023年は、(宮代)大聖と負けず嫌いなふたりがどんなに小さいことでも楽しんでやりながら競っていました。大聖と新で日本代表で2トップとか見てみたいですね」

 海外移籍する直前のタイミングでフロンターレの選手として日本代表に初選出され、同時に宮代大聖も選出されたことは縁を感じるし、通過点として、それぞれがまた違う道を歩み成長しながら再会することも楽しみだ。

想いと決断

 フロンターレでゴールを決めてチームを勝たせる選手になりたい。

 日本代表選手として、ワールドカップに出場して、貢献できる選手になりたい。

 そのために海外、欧州でのキャリアもめざしたい。

 そうしたサッカー選手としてのキャリアについても、これまで真剣に考えてきた。

 昨シーズンは、ポテンシャルとエネルギーと身につけた技術を発揮し、数々のインパクトを残した19ゴールを決めて、迎えた今シーズン。

 長谷部茂利監督の元で、また新たなサッカーに取り組み、大黒将志コーチの元で、動き出しやボールを要求することなど新たな気づきや刺激をもらい、プレーも学びながら、チームメイトと切磋琢磨してきた。

 新にとって小林悠は、アカデミー時代にスタンドからゴールを決めてチームを勝たせる姿を見ていた「憧れの人」であり、チームメイトになって近くなる程に「尊敬が増す」存在だ。

 小林は以前に「僕はフォワードの味方だから、味方が『外した』とか言われることがあったら、『そのプレッシャーがわかるのかよ』って思っちゃいます。だから、若い選手の話も聞くようにしています。だけど、自分は負けないと思ってやっています」と話していたことがある。

 

 4月下旬のこと、サウジアラビアで話を聞く機会があった時に、チームメイトを信頼し、戦いを見守りながら、同じポジションの先輩として、高め合い、寄り添ってきた新についても小林らしい愛のあるエールを話してくれたことが印象に残っている。

「新は、今苦しい時期だと思うけど、日本人のフォワードで自分の後を引っ張っていくのは新だと思うし、僕も点が取れなかったり、外したり、そういうプレッシャーはたくさん経験してきたので、自分を信じて乗り越えてほしいなと思います。試合中に情けない表情をしていると、ビンタでもしてやろうかなと思いますけど(笑)、やっぱりフォワードならではの大変さってありますからね。点を取らないといろいろ言われるし、上手くいかない時にそうなる気持ちもすごく分かります。新は、自分と性格的に似ているところもあって分かるからこそ、期待しています。僕もまた、頑張ります」

 本人は、今シーズンについてこんな風に振り返った。

 「点が取れていないし、納得いくプレーができていなかったから、なんでできないんだろうと思いながら、自分に腹が立ったり、自分がいやになる時もありました。ACLEも(タイトルを)獲りたかったし、ああいう中で状況を変える力がなかった。(表彰式では)何もできなかった自分に腹が立っていました」

 振り返ってみると、ACLEファイナルズの初戦となったアルサッド戦、延長に入った98分に、瀬川、新とつないで「あれは、みんなで獲ったゴールです」と話していたキャプテン脇坂泰斗のゴールが決まり、クラブの歴史を塗り替えたシーンは、みんなの記憶に残るだろう。

 そしてこの夏、セルティックFCへの移籍が決定し、クラブを離れる時が来た。

「アカデミーから育ててもらい、選手、スタッフ、サポーターもいて、大好きなクラブだし、寂しい気持ちもあります。とくに今年はもっと貢献したかった思いもあったし、申し訳ない気持ちもあります。今回、自分の次の夢に向かって海外に行きますが、外で僕が活躍することが、クラブの価値を高めることにもつながると思うので、頑張ってきます。中学、高校、大学、プロとカテゴリーや環境が変わることで、適応しようと成長してきた自覚もあります。環境が変わり、生活習慣も変わること、自分のこれからのキャリアがどうなっていくのか自分にも期待しているし楽しみでもあります。もちろんそんなに簡単にいかないと思いますが、そういう壁があることも楽しみたいですし、成長した姿を皆さんに見せられたらなと思います」

 フロンターレでの2年半で一番印象に残っているのは、2023年2月25日J1第2節アウェイ鹿島アントラーズ戦でのプロ入り初ゴール。

 ひとり少ない状況で1点ビハインドで迎えた後半44分にCKの流れから家長のバイシクルシュートに反応して決めた同点ゴールで、チームはその後、アディショナルタイムに家長がPKの蹴りなおしで決勝ゴールを決めて劇的な勝利となった。

「鹿島と川崎の戦いはずっと観てきたし、あそこで決められたことで『フロンターレのために(自分が)戦えている』と最初に思えた試合でした。逆転勝利もして、自分がアカデミー時代に観てきたフロンターレの勝負強さみたいなものを実際に中に入って感じられました」

 2年半の間には、たくさんのチームメイトと切磋琢磨してきたが、練習後のジョギング、試合2日前の全力坂道ダッシュ、キャンプでの練習場からホテルまでのジョギングなど、よく話をした先輩のひとりが「アキさん」。

「アキさんは、長い間試合に出続けていて、その偉大さとかタフさをすごく感じていました。たくさんしゃべってきましたし、いつも背中を押してくれる存在です」

 家長は、チームメイトとして一緒に過ごし、今回、海外移籍を決断した新のことをこんな風に話してくれた。

「皆さんが思う“山田新”を同じ様に僕も見てきました。優しくて、面白くて、エネルギーやパワーが溢れ出る新のことも、繊細で不安そうにしている時も、プレッシャーを感じてるんやろうなという苦しい時も見てきました。それは、一緒にグラウンドに立って練習すれば、見えなくても見える部分はあるし、自然とふとした時にしゃべったりするなかで感じることなのかなと思います。お互いにすべてを話さなくても感じることもあるし、僕も刺激をもらうこともありました。そういうなかで、この2年半で新がプロ選手になっていく姿をみられたのかなと思います。彼がプロになるまでに培ってきたものや、きっと今までこういう風にしてやってきたんだろうなということも、一緒にプロ生活を送ってだいたい見えましたし、新がプロになってからも自分が信じてきたものをやり続ける姿も見てきました。これから先は、やり続けることの幅とか深さとかが変化していく時期に入っていくんでしょうね。

 自分がやりたいことがあって、やれる人は、それをやることは大事だと思います。新はやりたいこととか目指すことがあると自分で分かっていたので、僕はただ応援するという感じでした。(決断したチームメイトを送り出すことは)この世界ではよくあることだし、新だけではないですけど、みんなそれぞれが自分で決めて自分で生きていかないといけない、そういう職業だと思うので、そのことに対してリスペクトもありますし、新が行く世界の話をまた自分も聴かせてもらうことは楽しみです」

走れ、風のように

 初めての日本代表での活動を終え、帰国した2025年7月16日、等々力で送別のセレモニーが開催された。

 2000年5月30日に生まれた山田新の誕生から数ヵ月後に解散したJUDY AND MARYの代表曲で新が大好きなチャントの原曲になった「Over Drive」に乗せて、スタッフが用意した送別のVTRが流れた。それを見ながら、少し涙が出てきたという。挨拶は、気恥ずかしさや緊張もあったが、Gゾーンに向かって歩いていくと、懐かしさがあり、泣きたくはなかったけれど、涙が出てきてしまった。

 自分のチャントがすごく好きだったこと。

 今シーズン、不甲斐ないプレーで、応援に応えられず申し訳ないと思っていたこと。

 それでも、背中を押し続けてくれて、本当に感謝していること。

 Gゾーンで別れの挨拶をするのは、2度目で、6年間過ごしたアカデミーを卒団する2018年最終戦の後も同じ様にトラメガで挨拶をした。

 その時も、自分がチャンスで決められずサポーターにがっかりさせてしまって、それでも「次は決めろよ」といつも期待してもらい心強かったこと。

 またフロンターレに戻って貢献できるように頑張ろうと思っていることを伝えたという。

「ユースの時は、あんまり勝っていなかったけど、自分たちが下を向いていても、サポーターが前向きな声をいつもかけてくれたし、『次だぞ』って言ってくれました。いつも心を動かされる存在で、毎試合そうですけど、とくに負けたときは響いていました。自分のチャントがスタジアムで歌われている時は、けっこう一体感が出ている感じがして好きでした。フォワードなので、悠さんもそうですけど、とくに気持ちが乗っているように感じられたし、僕の勘違いもあるかもしれないけど、自分に期待してくれているのはチャントから伝わってきました。自分がゴールを決めた後にチャントが歌われるのが、本当に好きでした」

 新のキャラクターも手伝って、試合後は、アカデミー時代も、プロ選手になってからも勝利の「バラバラ」をリードする役目を担うことも多かった。

 ゴールを決めるとエンブレムを「無意識に」叩いていたし、エンブレムに気づいたら踏まずに避けるなど、フロンターレのプライドを大事にしてきた。

 

 2年目からは副キャプテンを務め、プレーで引っ張るだけでなく、ピッチ外でもあらゆることでクラブに貢献してきた。

 ルーキーイヤーからファン感謝デーではマイクを握って歌とパフォーマンスで盛り上げ、2年目には登里享平からデジっちを引き継いだ。頼まれて引き受けたことには、気恥ずかしさを吹き飛ばすぐらいに全力でやり切るため、器用さも手伝ってそのハイクオリティなパフォーマンスはみんなを笑顔にし、盛り上げてきた。

 今年のファン感謝デーには日本代表の活動のため不参加だったが、トレカの私服撮影には、セネガル旅行で「生地から選んで」作った現地の民族衣装を寮から持参して着替えて撮影するなど楽しませる協力を惜しまなかった。

 送別セレモニーで大好きなチャントを何度も歌ってもらった新も、応援してきた人たちにとっても、お互いの心に残っていくだろう。

 自分自身にも期待して、自分に期待してくれる人たちに応えたいと思ってきた。

 だからこそ、自分に伴走してくれる指導者やスタッフ、一緒に戦うチームメイト、応援してくれる人たちの存在が励みにもなっていただろうし、自分のゴールでその人たちが喜んでくれることがうれしかった。

 

 これから先も、それぞれの活躍や存在が励みになるだろう。

 どこにいても山田新らしく、愛されて、今日を積み重ねた先にある未来を信じて、走れ風のように──。

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[やまだ・しん]

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川崎フロンターレアカデミー出身。強靭なフィジカルを生かしたパワフルな突破が最大の武器のFW。ゴール前に入り込み点で合わせてシュートに持ち込むだけではなく、五分五分のボールで泥臭く競り勝ちフィニッシュにつなげる。昨シーズンは日本人トップの19得点を記録。チームを勝利に導くストライカーとして大きく成長した。
2025年7月、セルティックFC(スコットランド)へ完全移籍。

2000年5月30日、神奈川県横浜市生まれニックネーム:シン

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